平塚市真田の神社やお寺・真田神社と曹洞宗萬種山天徳寺
眞田城址と天徳寺の由来 眞田與一義忠公は三浦義継の四男 岡崎城主岡崎四郎義美の嫡子であり その居城が眞田城である 治承四年(1180年)八月二十三日夜、 源頼朝伊豆挙兵の折り石橋山にて 俣野五郎の家臣長尾新五・新六のために 討ち死に。二十五歳であった。 一説に義忠公この時痰が咽につまり 討たれたことにより喘息・痰咳の神 (眞田明神)として崇められている 後、天正年間岐阜天徳寺七世義翁盛訓禅師 義忠公の菩提を弔うため天徳寺を造立する。 法名○○○○○○○・・・ 眞田尊與一神輿保存会 〜案内から参照記載〜 |
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↑真田神社 | |
↑萬種山天徳寺 | ↑案内版 |
↑天徳寺与一堂 | ↑天徳寺鐘楼 |