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2012年6月へつづく
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2012年5月31日(木)
酒・・たばこ・・麻雀・・
入社して先輩や同僚に酒席へ誘われた、最初は歓迎会だったと思う
ビールを少し飲んだだけでヘベレケ状態でした、自宅では夕飯時に
ウイスキー(父が好きでした)をコーラで割り飲んでいた
先輩の家へ招待されてかなり飲んだ時天井が回る、回る、吐いた
これを境に飲む程度、加減が判るようになり、酒席へよく行く
仕事が終わり、洗い場やロッカーで声を掛けられて、駅前の
居酒屋へ週3ぐらい、先輩とも割り勘をモットーとして飲んだ
奢られると飲んだ気しないよね、自分の銭で飲んでいるんだぜぇ
気分いいよね、そんな時、たばこを覚えた、遊びでプカプカ
煙を吸い込んだ時はムカムカ、吐いた、いつしか日に10本ほど
吸うようになっていた、10時12時3時5時7時と休憩になると
銜えていた、自販機のコーヒーを飲みプカプカ、工場労働者です
酒は辞められなかったがたばこは退社とともに止めた、麻雀は
覚え始めたころ、先輩に雀荘に誘われ、ヘボなのでカモにされた
高い晩飯代を何度も払わされた、嫌ではなかったな、遊んで頂ける
そんな気持ちだったのかな、サラリーマンの高い授業料だ、
母は飲めない、正月に少し飲む程度、祖父は酒豪だったらしい
枝豆が好物で、母も枝豆が大好物で、枝豆を見ると祖父の話、
写真は焼酎吉四六、きっちょむ
つづく
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2012年5月30日(水)
写真愛好家
企業に入社後暫くして企業内写真部に入部しないかと誘われた
父から借りたOM1で暫く参加、給料で買ったキヤノンが相棒となり
撮影会などに参加する、社内報の写真も写真部の担当でした
個人的には、三つの写真雑誌の会員になった、他人がどんな写真を
撮影しているのか、構図やトリミング、風景の切り取り方など
露出や撮影条件など参考になり、勉強になった、退社後には
銀座のカメラメーカーの写真教室も通い、プロの写真も見る、
プロで飯が食える人は少ない、僕は写真愛好家と自称している
ホームページで掲載の写真を利用させてほしいとメールが来る
基本は利用フリーです、同じような写真を撮る人はたくさんいます
有料で提供するほど写真の腕前はありませんので 苦笑
アートというより記録写真ですね、最近では小田急の引退した
車両を写しておいたのは記念になりました、
写真は父の愛用OM1 修理してドライ庫で寝てます
EOS5はカタログの写真に惚れて買いました
つづく
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2012年5月29日(火)
キャンプの思い出
秦野には丹沢山塊への入り口がある、大倉から登山道がある
丹沢と言えば高校卒業後就職したころ大学へ進んだ友人が
丹沢へキャンプに行かないかと話を持ってきたことがあり、
テントや炊事道具やキャンプに必要なものを買い、出かけた
夏休みだったと思う、あの時は山北からバスで神縄で下車し
歩いた、まだ丹沢湖は無くユーシンまで歩きキャンプした、
翌日、勢いに乗り塔ノ岳へ登ろうと悪友が言い出し、一人
帰った友人がいたが登った、今思えば夏とはいえ無謀でした
足はサンダル、ラジウスは無くカセットコンロ、非常食は無く
キャンプ用食料でした、何とか上り、山荘傍にテントを張り、
丹沢山と縦走し、7時間歩き清川村札掛へでた、若いとはいえ
足の裏は豆、爪は充血し、反省しきり、無茶したよね、苦笑
丹沢へ登り、住むならここだな!と思ってたことを思い出す
今はユーシンまでの道は通行止めのようだ、道祖神めぐりで
丹沢湖へ行ったが変わっていた、当たり前かぁキャンプしたのは
40年前だもんね、キャンプの帰路は大倉へ下った、大倉バス停は
秦野戸川公園の傍、今は公園にキャンプ場も整備されている
写真は秦野戸川公園、風の吊り橋、季節ごとの花が綺麗だ
つづく
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2012年5月28日(月)
横浜から秦野へ
横浜市鶴見にあった本社工場は小田急沿線へ移転した
しばらくは戸塚から通勤していたが、バス電車と乗り継ぎ
通勤時間は2時間弱かかっていた、夜勤の帰りに寝てしまい
乗り越しJRの小田原まで行っちゃったことがあった 爆笑
そんなある日の朝、新聞を見ててマンションの広告を見つけた
小田急沿線の秦野市内の新築マンションで、移転した会社にも
小田急一本で通勤できるじゃ〜ありませんか、正月のハガキが
あったので資料請求をしてみた、さっそく分譲の担当者が
資料を持って家へ来た、説明を聞いてるうちに母が気に入り
モデルルームを観に行ったところ、仮契約へと進む、契約が
済み、頭金を支払、出来上がるまでの数か月は時々見に出かけ
進捗を確認するのが楽しみであった。父が死に嫁姑の仲も
イマイチで妹も結婚し、母も退社し一人でいる時間が多くなり
秦野で僕と一緒に暮らすことにした、秦野へ引っ越した時には
僕は34で母も60過ぎで、休日には一緒に近くを散策した
写真は小田急 9000形 続く
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2012年5月27日(日)
一人暮らし時代
20から30ぐらいまで一人暮らしをした、アパートを借りて
通勤、職場も日勤職場から二交代職場へ移動、一週おきに夜勤が
あり、夜勤明けの日はほとんど寝ていた、昼勤から夜勤へ入る
週は大丈夫だが、夜勤から昼勤へは月曜日が怠かった、夜勤ボケ
火曜からは戻った 笑 高校時代の友人は大学へ行き、いつごろか
忘れたが、僕のアパートへ遊びに来るようになり、麻雀や飲み会
で毎週末集まってきた、夜勤明けで寝ているときにもメンツを
揃えて麻雀をしに来ていた、僕は煩いと思いながらも寝てた
飲み会の時には泊まっていく友人(悪友)も居たな、原付の免許を
取り、駅まで通勤に利用、盗難で原付が無くなり、それでも税金
の徴収の知らせが来た、免許更新を辞め、バイク時代は終わった
風邪で会社を休んだ時は食事が大変でした、友人と遊んだ時代で
楽しかった思い出がたくさんある、会社の移転や父の死で母と再度
暮らし始め、秦野市へ引っ越し、現在に至っている、好きな子も
いたが、死んで終い思いは途絶え、気力が萎えていった、
写真は時計草、続く
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2012年5月26日(土)
岡津町時代
横浜市港北区篠原から引っ越して来たのは中学1年の時
自然が豊かな所です、中学、高校、就職と此処で過ごした、
高校は戸塚区内の高校卒業、高校のOBの勤務先に就職
就職担当の先生から紹介された、29年務めた、35の時
秦野市へ転居、父(養父)は僕が28の時に死んだ、もう
33年になる、母は父の死や、妹の結婚出産と会社を休む
回数が多くなり、退職した。家は長兄に譲った、会社は
早期退職が始まり、退職金の上乗せもあり退社、退職金で
住宅ローンも完済し、少しばかりだが退職金も残ったので
貯金を取り崩し暮らしてきている、母も年金を貰い始め
生活できた、今思えば父(養父)の三交代勤務のお蔭だろう、
中学高校と犬を飼い散歩し、自然が残る環境抜群、道祖神
巡り散策で20数年ぶりに近所を徘徊してきた。
画像は下倉田・南谷戸、おおわらじ
つづく
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2012年5月25日(金)
母の子供時代
母の実家はお手伝いさんがいるほど
裕福な家でしたが男の子供が早死にして
祖母の代では婿取りして、家を守ったそうだ
母には弟が二人いて、オテンバだった、
花火大会に家族で出かけたときに迷子になり
自分一人で線路を歩き家まで帰ったとか、
当然、親は心配して大変だった、
女学校を出て就職したが自宅から通勤し
雪の日は腰まで降る雪をコザイて通ったとか
当時この地方では、冬場は下宿や会社の寮
通勤に便利な場所を借りていたとか。
頑固に自宅から通勤し続けた。(自慢している)
性格は気位が高いお嬢様タイプかな
生まれた時から一人暮らをしたことがない
戦争中は空襲が少なく、敵の飛行機が
遠くの空に落ちてゆく所を見たと言っていたな
戦時中や戦後の事は聞いても話さない(忘れた)
写真は2010年胆石で入院しているとき
つづく
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新聞部
中学時代は新聞部に加入した、鉄筆でカリカリ原稿を刻む
ガリ版刷りをして掲示したり配布した、もちろん指導の先生が
いた、スポーツ大会には同行し、写真も写した、当時は銀塩
フィルムで撮影時の成功失敗が判らず出来上がりが不安でした
ピントブレや露出不足など。とほほな写真も廊下に掲載された
事もありました。母は職場に馴染んで、家庭的な会社で社員旅行
もあり、楽しみにしていました、誕生日会もあったようです、
父が三交代勤務で、家族そろって旅行した記憶がありません、
高校時代はバレーボール部(身長が足りずすぐ辞めた)や
将棋部に在籍、へぼなので試合にはでれず、父とは車角落ちで
負けるほど弱かった、3年の時には帰宅部となっていた 笑
母はこのころ歯が悪くなり、一緒に歯科へ行き、総入れ歯となった
冬は室内は寒く、母がストーブとコタツを準備してくれた
料理のメニューは少ないが手料理で思い出すのは
里芋のゆずみそ和え、弁当にはいつも卵焼きとウインナ、のり弁
沢庵、梅干し。当時はこれで十分OKでした、
写真は旧江ノ島灯台、S26築〜H14廃止
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2012年5月24日(木)
駄菓子屋
新潟から横浜へ引っ越した事は書いたが具体的な事を少し記載
東横線妙蓮寺駅徒歩5〜6分ぐらいに所に住んでいた、白幡小へ
通学、学校付近に駄菓子屋があり、買い食いした、今ほど
うるさくなく、ここのおでんはおいしかったなぁ〜一つ5円か
10円だったと思う、妹とは商店街のパンやへよく行った
バターピーナツを塗ったパンが10円だったかなぁ〜
母は駅近くの町工場へ勤めていた、菊名池傍の揚げ物屋の
ハムカツは美味かった、駅近くの林にはセミやトンボもいた
夏は盆踊りもあり、良き日本の伝統があった、電車は俗に
青ガエルと呼ばれる丸い顔に緑色の車体、養父に連れられて
大倉山へ行った、この時代は父が養父だとは知らなかった
アルバムから一枚の写真を見つけて母にこれ誰?と聞いていた
父がまだこの写真を持っていたのか、と、叱責した、
後で判ったことだがこの人がホントの父だった、母は僕の
実の父親の事は話してくれなかった、ただ、姑と仲が悪かった
らしい、死んだ経緯も判らない、中学1年の時に転居
岡津町へ引っ越し、学校は徒歩30分で雨の日はきつかった
昔は通学の学区があった、母は前の町工場へしばらく通勤、
大変だったらしく、戸塚区内の工場へ転職、今は宅地開発
されてしまったが、当時は広い林があり、父と愛犬と山菜採り
ゼンマイがたくさん摂れた、茹でてあく抜き、ゴザに広げて
天日干し、乾燥させて保存した、畑も借りて、ヤツガシラ
(里いもで茎が紫色)を植えて茎を乾燥させて保存、
芋茎(ずいき)の煮物はいまだに好きだ、母はゼンマイの
綿取りが嫌いだとこぼしていたなぁ〜、つづく
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2012年5月23日(水)
写真
母は趣味らしきものが無かったようだ
生活に追われて仕事で稼ぐ事が
趣味だったように思う、養父は
写真が趣味で社宅四畳半に暗室を
作り現像していた、当時は白黒で
出来上がりの写真に色づけしていた
、撮影会や映画には良く僕を連れて
出かけた、妹との写真もたくさんある。
夫婦で稼いで貯金をし、僕が中学に上がるとき
横浜市内の戸塚区(現在は泉区)岡津町に
家を建てた、養父の長兄夫婦と一緒に住む、
高校を卒業するころは両親、妹、僕、長兄夫婦
その子供3人、9人家族、賑やかだった。
母は自動車関連の工場に勤めていた、
パートから正社員になれた、と喜ぶ。
残業もあり夕食は会社帰りに買った
メンチかつが多かったなぁ〜、、、つづく
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内職
新潟から横浜へ引っ越し、養父は三交代勤務のサラリーマンでした
母は内職、筒状のビニール袋の端を電熱器?で止める、
洒落たおやつなどは無く、棚の中にある煮干しでした
小学校に上がるころ、近所の町工場へ勤め始めた、
鍵っ子生活でした、僕の小学校は人数が多く時間差で
授業が行われていたなぁ〜、運動会の時、朝弁当を
持って行かなかったら、昼食時に母が重箱に入れて
学校へ来た、妹と三人で食べた、母は料理時間がなく
夕飯はコロッケや出来合い物が食卓に上った、
ベーゴマが流行で、社宅の子供の集まりはベーゴマだった、
母は僕が4年生のころ階段から落ちて手首を骨折、
養父が食事を作ってくれた、かなり美味しかった、
ラーメンを作るのが上手くラーメン屋がやるように出汁を作り、
こだわっていた。つづく
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2012年5月22日(火)
自分史+認知人の母の事
母が認知になり、昔のことを忘れ始めている
ふるどん。(僕)の昔の事を聞いてもどうだったかなぁ〜と、
とほほな状態が出てきた、子供のころに聞いていたことなどを
書いておこうと思う、まず、母は大正13年新潟県新発田市生まれ
母の実家は男性が早死にして祖母は婿取りした、祖父は鉄道員
戦後、僕の父親と職場結婚した、僕が3歳ごろ父が死亡
(詳細は聞いていない)したという、祖母の実家に戻り働いていた
時に見合いの話で養父と結婚し妹が生まれた、
僕は祖父母の家で暮らし、養父の職場の都合で新潟から横浜へ
転勤後養父の養子となる、苗字が3回変わっていたことは
中学の時に戸籍を見て初めて判ったことだった。
左は社宅隣りのKちゃん、中央は妹、右は僕(ふるどん。)
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始めた訳
ふるどん。の日記などブログや
無料のホームページを作って来ているが、
ジオログが利用出来る事も判っていた、
母は認知症で昔を忘れ始めている
今回ジオログを利用することにした、
自分史や家族の話、そして
母のことなどを記載して行こうと思う。
写真は最近の一枚(2012)
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